2010年4月1日木曜日

連載コラム259 from 北海道●わたしの祖母

祖母を一言で語るのならば、「華美」が相応しい。
私の祖母とは、そんな人である。
歌に踊りに、身につける洋服の好みも人一倍うるさい。
贅沢が何よりのご馳走だ。
それでいて、情にもろい人だ。
可哀想な人や、気の毒な人をほうってはおけない。
ついつい世話を焼いてしまう。
性分なのだと思う。
だけど、そんな性格だから、あこぎな押し売りや、怪しい宗教、私
の祖母は随分と騙されたことも多かった。
ところが、騙されたと周りが騒いでも、本人は至って迷惑そう。
「そんなこと言ったって、可哀想じゃないの」
訪問販売で押しつけられた羽布団を返す時だって、「悪い、わる
い」の一点張りである。
年寄り特有の人の良さなのだろうと思う。
まだ、祖父が生きていた頃、何かにつけ財布の紐が固い祖父のお陰
で祖父母の生活はそれなりに豊かだった。
元来働き者の祖父は、僅かばかりの庭をせっせと耕し、豆や芋を作
り、山に一人で出掛けては、季節の山菜を沢山摘んでくる。
ストーブで燃やす薪は、何処からか採取したものを家の前で、せっ
せと割り、小さな物置には上まで隙間無く積まれた薪がびっしりだった。
シベリアから引き上げて間もなくの頃、祖父はたった一人で家も建てた。
泥と藁を混ぜ合わせた壁でこしらえた泥の家である。
その家を、家族はあまり喜ばなかった。
娘時分は、泥でこしらえた家が恥ずかしかったのだと、私は母から
聞いたことがある。
だけれども、とても暖かい家だったそうだ。
そして、その家は、祖父の兄弟に只同然で奪われたとも聞いた。
遠い昔の話である。
シベリア帰りで、病を引き摺っていた祖父に国から恩給が支払われ
ていたため、祖父母の暮らし向きは普通より豊かだった。
恩給を受けても、祖父はずっと定年まで働いたし、質素に何でも手
を掛けて器用に作る祖父のお陰で、祖母はお金に困らない暮らしだった。
でもそれは、祖父が健在だった頃の話で、祖父が他界してからの祖
母はというと、それまでの堅実的な生活を見事に捨て去り、自由に
気ままに人生を謳歌したようだ。
本土より戦争被害の少なかった樺太に住んでいたとは言っても、や
はり戦争の混乱はそれなりに体験している。
終戦と同時に、北海道に引き上げる船の中で、幼い子供を三人も抱
え、同行していた女中に預けていた食料や衣類、全ての物一切は盗
まれて、おまけに履かせていた子供の長靴まで、無惨にも盗まれた
のだと、祖母は、この時の引き揚げ船での出来事を、何度もなんど
も繰り返し、涙ながらに語った。
ロスケ(ロシア軍)から逃れる恐怖よりも、終戦と共にそれまで自
分達の身の周りにいた人達まで、見事に卑しく変わり果てた姿に、
祖母は、おののいたのだろう。
祖母の中では、人生でもっとも最悪で、これ以上ないほどの地獄の
記憶でもある。
そんな祖母も、晩年は優雅だった。
金を惜しまず、贅沢に暮らした。
それにたかる輩に、祖母は何食わぬ顔で与え続けた。
そして、祖父がせっせと貯えた財産も、そろそろ底を突いてきた頃に、
当然の如く、祖母の金を巡っては身内同士で争った。
誰がいつ使った、引き出したか。
誰が幾ら貰った、貰わないは、悲しいまでに拭えない凝りを残した。

93歳で大往生の祖母を、周りは幸せな人だと言う。
寝たきりになっても、施設に入れずに自宅で介護され、私の母は付
きっきりで、祖母に尽くした。
それは、祖母が一番に望んだことでもある。
病院や老人施設は、頑なに受け入れようとはしなかった。
絶対にイヤなのだと、祖母はガンとして受け入れなかったのだ。
それでいて、食べ物の好き嫌いは数え切れないほど多い。
インスタント食品や、味の濃い物が好物で、食べられる物より嫌い
な物の方が多い。
卵も、牛乳も、豆腐も、牛肉も、炊き込みご飯も見事に嫌いである。
野菜も好きではない。
頑なに食べてはくれない。
食事中に、箸を口に運びながら、「おいしくないねぇ」と溜め息を
もらすのだ。
糖尿を患っていたから、味覚障害もおきていた。
好き嫌いが多い上に、何を食べても「味がしない」と口をへの字に
曲げるのだから、難儀なことである。
だから、祖母への食べ物については、いつも根比べだった。

施設に僅かの期間、ショートスティに出した時の事だ。
三度の食事も、嫌いな物ばかりと祖母は毎食殆ど残し、頬もこけ
て、体重も落ち、ついには栄養失調になった。
祖父がまだ生きていた頃、これほどまでに頑固ではなかったなと思う。
祖父が死んで、箍が緩んだ反動なのかもしれない。
そんな祖母を私は人間らしいと思った。
人の悪口を言い、意地の悪いことをして、平気で嘘をつく。
かと思ったら、涙もろくて、可哀想な人はほおってはおけない。
騙されても、騙されたと思わずに、また金を出す。
祖母のカラオケ十八番は、「矢切の渡し」である。
そして、「浪花節だよ人生は」でもある。
「夫婦酒」など口が裂けても歌わない。
奪って奪われての男と女の色恋歌が好きなのだ。
私は祖母の生き様から、人間のおもしろさを学んだように思う。
決して簡単ではない、だけど、どうしょうもない醜さや、情愛や強
い自我。
意地悪な心も、朗らかな人間性も。
まるごと全部を今改めて思い返しても、祖母はとても楽しい人だった。

祖母があの世に旅立って、残された遺品は多い。
綺麗で品のある洋服も数え切れないほどある。
祖母が愛用したカツラ。
肌身離さず温泉に浸かる時も、眠る時も、それはお洒落な祖母らし
くもある。
「氷川きよし」の大判のカレンダーとDVD。
友達にまで惜しみなく分け与えて、僅かに残った宝石。
祖父母のアルバムを捲ると、目を見張るほど美しくて若い祖母の写
真がいくつも出てくる。
モノクロの、女優のような女性は、艶やかな祖母をそっくりそのま
まに、写真の中に閉じこめていた。
「見初められて、結婚したんだよ。お見合いだったんだけどね、ど
うしてもとせがまれて、私の好みではなかったんだけれど、立派な
仕事に付いていたしね。それで結婚したんだよ」
祖父は、ずっと最後の最後まで祖母を愛していた。
うんと働き、寡黙で優しい人だった。
その祖父のことを「好きじゃなかったもの」と祖母はしゃあしゃあ
と言ってのける。
「四角い顔がね、どうにもイヤじゃない? 私の好みはもっと美男子」
とケロリとした顔で囁くのだ。

祖母とのあれこれを思い出すと、どうにも楽しいことばかり。
楽しくて、思い出が深すぎて、少し感情が抑えられなくなる。
涙がこぼれる。
永遠の財産とは思い出だけなのだろう。
祖母もあの世で思い出してくれるだろうか? 
共に過ごした宝石のような時間を、きっと思い出してくれるだろう
と信じたい。


コラムニスト●プロフィール
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赤松亜美(あかまつあみ)
北海道在住

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