2011年7月1日金曜日

連載コラム289 from北海道●奇跡

是枝裕和監督の映画『奇跡』は、子ども達が主役の映画である。
2004年の映画『誰も知らない』では、親に置き去りにされた子
ども達が、団地の一室で生き抜く姿をとらえた衝撃的な社会派ド
キュメンタリーでもあったが、映画『奇跡』は、同じように子ども
達に視点をおきながら、とても温かい映画だ。
離婚した両親が、それぞれに子どもを引き取り、離ればなれに暮ら
す兄弟がいる、そんな設定で、この物語ははじまるのだが、なかな
か環境になじめない小学六年生の兄と、前向きに順応していく小学
四年生の弟が、とても対照的で、笑ってしまうのに、心がチクリと
痛むのだ。
ある日、兄の航一は、噂を耳にする。
九州新幹線の一番列車がすれ違う瞬間を目撃すれば、奇跡がおきて
願いが叶うと。

映画『奇跡』を通して、自分の心が子ども時代に還っていくようだった。
あの頃の私は、いったい何を信じて生きていたのだろうか。
今よりずっと純粋な目で、物事を見つめ生きていたことは間違いない。
不安なことより、楽しいことや幸せを感じることが多かったように思う。
大人になってしまうと、心はそれだけ鎧をまとってしまう。
けっして無防備ではいられなくなる。
そのことが悲しいというより、映画を通して懐かしさに出会ったよ
うな気持ちにさせられた。

是枝監督の映画の凄いところは、けっして甘口のハッピーエンドで
終わらないところだ。
この時代に生きる家族のあり方は、非情にリアルで、リアルであり
ながら、子ども達が奇跡を叶えたいと信じ、がむしゃらに突き進む
ところに、ほんのりとファンタジーが隠れている。
そして、映画の中で、奇跡は子ども達の願望とは違うところで、出
会いを運び、温かさを秘めた形で現れる。

人は、どんなことを奇跡と感じるのだろう。
いま、生きていることそのものが奇跡だとしたら、もっと優しい視
点で、人生も見つめられるかもしれないと、そんなふうに思った。

この映画は、意外にも企画ものだったという。
3月に全線開業した九州新幹線を軸に映画をつくる、そんな企画に
是枝監督が抜擢された。
企画当初、監督の頭の中に浮かんだのは、『スタンド・バイ・
ミー』のような子ども達が線路の上を歩いているイメージだったら
しく、鹿児島に住んでいる男の子と、博多に住んでいる女の子が、
九州に初めて走る新幹線を見に行って出会うというストーリー。そ
の後、福岡~鹿児島間の新幹線の線路は高架線が多く、遠くや高い
ところから眺めない限り目線に入らない場所が多かったことと、子
役のオーディションで選ばれた兄弟の主役たちに出会ったことで、
更に脚本を書き直したという話だ。
主役の兄弟は、お笑いコンビ『まえだまえだ』の二人である。
この二人が、抜群に素晴らしい。
兄と弟のそれぞれの友だち役の子役たちも、一人ひとり味があっ
て、実に自然体。
それもそのはず。
監督は、子ども達には台本を渡さず、そのつど監督が口だてで子供
らに言うだけ。
撮影のイメージを伝えて、子ども達にはそれぞれ自然体で演技して
もらう仕組みなのだ。
こういうところが、まさに是枝監督のドキュメンタリーらしさかも
しれない。
映画『奇跡』では、大人達は脇役に徹している。
離婚した両親の父と母、祖父母、祖父の親友や学校の先生、また友
だちの母親などが、そのつど登場してくるが、いずれの大人達も過
剰に子ども達を干渉せず、温かく見守る姿が印象的だ。
それに、この脇役の大人達が、こぞって豪華キャストなのも見物である。

鹿児島名物かるかんが、この映画では楽しく美味しく活きていて、
祖父と兄の航一の会話や、兄弟の会話から、思わず失笑してしまう。
かるかんの味を「ぼんやり」から「ほんのり」に変わっていったよ
うに、ひとりの少年の心の成長を描いた、あったかくて、少しだけ
切ない映画だった。

作品の中で引用されている谷川俊太郎の詩「生きる」は、ひょっと
するとこの映画のタイトル『奇跡』の謎かけなのだろうか?

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

全編九州ロケで撮った映画に散りばめられた景色も見所である。
桜島に、新幹線に、街並みに、そして暮れなずむ夕日にも、監督の
優しい目線を感じてしまう。
是枝監督の映画は、やっぱりいい!
映画『奇跡』は、ほんのりと温かさと懐かしさを心に運んでくれる
映画です。




コラムニスト●プロフィール
……………………………………
赤松亜美(あかまつあみ)
北海道在住

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