2012年6月15日金曜日

連載コラム312 from 北海道●現代教育への疑問


授業中に落ち着きがなく、集団生活に馴染めない。
奇声を発したり、すぐに暴力をふるったり、あばれてしまう。
そうした子供が教室内にいるだけで、授業に支障をきたし、ムード 
がピリピリしたり、先生達の気苦労も漠然と想像はできるものの、 
問題行動を起こす子供を病気とみなして、『発達障害』という枠で 
囲おうとする社会の趣きに愕然とした。
NHKクローズアップ現代『薬漬けになりたくない ~向精神薬をのむ 
子ども~』を見た。
ショッキングな話だった。
問題児なんて当たり前のこと。
学校生活に馴染めない子供がいたって、それは当然。
そんなふうに受け止めてしまう私のような人間が、古いとでもいう 
のだろうか。
昔は、そんな子供はどこにでもいた。
当たり前で、ごく普通のことだったはずである。
子供は、それだけエネルギーの塊なのだ。
発達障害とは、何をもって言いたがるのか。
不安を覚えた。
子供達を育てにくい社会になったものだと悲観的になる。
数年前から、耳にすること、目にすることに疑問を感じてしまうこ 
とは多々あった。
小学校での運動会での一幕。
みんなで手をつなぎ、一緒にゴールする徒競走。
競わせないで、平等を重んじる不思議なルール。
学芸会の劇の一幕。
運動会と同じく、公平さをよそおって、主役をクラスの全員が演じ 
るお芝居。
モンスターペアレントという言葉が語られるようになってから、学 
校教育にねじれを感じたのは、きっと私だけではなかったと思う。
小学校の教員をしている友人から、クラスが崩壊した話を聞いた。
我が子かわいさに、学校に注文をつけてくる親たちの話も聞いた。
素直に大変だと思ったものだ。
けれども、そうした学校生活の一端で、集団に馴染みにくい子供に 
レッテルをはり、向精神薬をあたえたがる現場、社会があるとする 
ならば、こんなに恐いことはない。
私たち大人は、子供を見守りはぐくむ社会をいったいいつ放棄したのか。
責任を互いに押し付けあってばかりで、右に習えない子供を『発達 
障害』だといいきる社会。
息苦しいのは、大人達ばかりではないのだ。
子供にだって、逃げ場は必要。
だけれども、大人も子供も時間に追われ、目まぐるしく生きなけれ 
ばならない現代では、ささやかな逃げ場すらどこにもないのかもし 
れない。
『鶴瓶の家族に乾杯』や『ようこそ先輩』に見られる子供達から 
は、そんな心の崩壊やねじれなどみじんも感じられない。
いつも希望に満ちて、子ども達の行動や発言に笑顔になる。
だからこそ、強く思う。
向精神薬で、子供を押さえつけようとする社会など、ゆがんでいると。
精神薬を服用しなければ学校に通えないというならば、学校には行 
かないほうがいい。
なぜ、医者は簡単に処方してしまうのか。
なぜ、親はそれを子供に飲ませるのか。
疑心暗鬼に掛かりながら、子供に向精神薬を服用させるなど、子供 
を殺すことと等しい。
この場合の責任とは、いったい誰のための責任なのか疑問を感じる。
親も医者も学校も、子供の将来より自分達の楽な方を選んでいるだ 
けではないのか。
今年から中学校の体育で必修化させたダンスも、文部科学省の安易 
なおふれによるものだが、ダンスを必修させたがる意味が理解できない。
私個人は、趣味でダンスサークルに通っているけれど、私のまわり 
でもこのおふれに対して、疑問視する声は多かったし、現場の混乱 
が目に見えるようだ。
ダンスに触れたこともない先生達が、おいそれと踊れるようになる 
とは思えないし、そうした先生から、ダンスを教わる子供も気の毒 
なのだ。
ダンスは、体育とは違う。
リズム感も必要だし、スポーツが得意不得意に関係なく、センスが 
問われる。
運動不足の解消だけを取り上げて、媚を売るだけの方策など、本質 
が欠けている。
だからこそ思う。
大人達の思いつきで、子供達の教育を翻弄しつづける日本の子育て 
は、ゆがんでいるのだろうと。
必修授業にダンスなんていらない。
向精神薬なんて、子供には絶対にいらない。
見守りはぐくむ社会を、私たち大人は子供に返すべきである。






コラムニスト●プロフィール
……………………………………
赤松亜美(あかまつあみ)
北海道在住

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