2012年5月15日火曜日

連載コラム310 from 北海道●PRAYER


ジャズシンガーの綾戸智恵さんは、素敵な女性だ。
しゃべると元気な大阪のオバちゃんなのに、歌はまるで違う。
強くて、少し淋しくて、心にずんずん落ちてくる。
人生を背負い、歌う人。
魂の歌声。
まさに、Prayerだ。
そんな印象を受ける。
あの小さな身体から、沢山のエネルギーを放出させて、歌っていた。
綾戸智恵さんのコンサートに行った。
まだ雪解けが始まった、3月末の話である。
友人に誘われ、私にとっては、初のコンサートだった。

実のところ、綾戸さんの歌には思い入れがある。
他界してしまった友人が、綾戸さんのファンだったのだ。
だから、コンサートへ行くと、どうしても彼女を思い出した。
自殺だったので、今でも、なかなか拭えない凝りがある。
でも、もう、そろそろ開放させてあげたい。
もう、これ以上、彼女を哀れみたくないのだ。
彼女との思い出は、楽しかったことが、たくさんあったはず。
嬉しいこと、笑ったことが、いっぱいあったはずなのだ。
だから、そういうことを、ちゃんとあれこれ思い出してあげなくて
は、いけないように感じた。
それが、友人だった私に出来る最大の供養なのだから。

札幌キタラのコンサートホールは、クラッシック御用達の立派な
ホールである。
綾戸さんは、もう、何度も、このホールで、コンサートをされてい
るのだとか。
我ら観客をぐるりと眺めて、「コロッセオのようだ」と笑いを取
り、観客をわかせた。

ニューアルバム「PRAYER」は、綾戸さんの、この一年への思
いが詰め込まれたアルバムだ。
あの3月の震災で、一度は心が萎えて歌えなくなり、その後、勇気
と力を得て、完成されたアルバムなのだそうだ。
このアルバムに、被災されたいわき市の女性とのエピソードが書か
れてあった。
心温まる、素敵なエピソードだった。

自分に出来ることは、皆さんと会って、歌うこと。
皆さんと関わり、絆を持つこと。
けっして、一人では歌えない。
皆さんがいるから。
皆さんに支えられているから。
これ、綾戸さんの言葉です。

歌に力をもらおう。
歌に、魂を洗われて、また元気になればいいのです。
私も、綾戸智恵さんの歌を亡くなった大切な友人と一緒に聴きます。
彼女との素晴らしき思い出を胸に、優しい気持ちで聴きたい。

ちなみに、ニューアルバム「PRAYER」の売上の一部は、被災
地へ義援金として寄付されるそうです。



コラムニスト●プロフィール
……………………………………
赤松亜美(あかまつあみ)
北海道在住

連載コラム192



日本のお笑い芸人がマラソンの楽しさに目覚め
オリンピック代表を狙うほどハマりこんだ。


しかしマラソン大国日本ではオリンピック枠に
入りこむことは至難の技。
そこでその芸人はマラソンがそれほどポピュラーでなく
弱い他国へと目を向けた。


そして、日本国籍を捨て、その他国の国民となり
オリンピックへのチケットを手に入れた。


日本のマスコミは連日のように彼のことを報じ、
その国のマラソン選手にもインタビューを行った。


この騒ぎを聞きつけたオリンピック委員会は
彼が代表になることは「規定に反するのでは」と懸念。


結局、彼のオリンピック代表は取り消されてしまった。


日本のマスコミが鍵
これはいわゆる猫ひろしという芸名で活動する男性の
五輪出場取り消しである。


彼はマラソンで五輪を目指してカンボジア国籍を取得。
しかし日本のマスコミが、


「本当にカンボジア代表として出て良いのか」
「出られなかったカンボジアのマラソン選手へのインタビュー」


などを連日のように報道。
論議を巻き起こし、最初は歓迎ムードだったカンボジア人たちも


「金に糸目をつけない汚い事件だ」


と思うようになっていったようだ。


そして、この事を知ったIAAFが調査に乗り出し
「国籍変更1年未満の選手は、国籍の取得から連続して最低
1年はその国に居住していないければなない」
という規定に反していると指摘。


カンボジアの五輪委員会は
「彼は2009年以降カンボジアに住んでおり、
今回の五輪のためだけにわが国の国籍を取得したわけではない」
と説明したが、IAAFは「規定は規定」としてこれをはねつけたのだ。


日本人嫌いな日本人
今回、日本のマスコミが彼をバッシングした理由は
金で他の国内選手辞退させたこと、そして、
「五輪では、ゴールしたときニャーと言う」など
オリンピックの精神を馬鹿にしたことにあるだろう。


五輪に出るため日本国籍をとる外国人もいるのだが
そちらの方は、メダルを狙える選手だからか、
はたまた外国人だからか、暖かく応援する。


日本人は海外で日本人を嫌う、めずらしい人種だ。


華僑や欧米人などは、海外で自国の人に出会うと
とても友好的に接し、応援するものだが、日本人は違う。


海外ではなるべく日本人とは接触したがらず、
帰国後も「いかに自分は日本人のいない場所で、
外国人ばかりの中で暮らしか」を自慢気に話す。


日本人は海外で日本人にあうと激しい嫌悪感を抱くのである。


今回の猫バッシングも、そんな残念な日本人精神が奥底にあるように
思えてならない。


外国人のリアクション
今回のこの一連の出来事をどう思うか、
外国人の友人に聞いてみたところ、大半が「問題ないのでは」という
意見を持っていた。


日本人びいきというわけではないが、
「自分の国にも海外からやってきて代表を狙うため
国籍を取得する選手がいる」というのがその理由だ。


オリンピックは、それだアスリートにとって特別な祭典であり
それを尊重してもよいのではないかと言うのである。


こんなにも日本のマスコミがバッシング報道したのは
何か金銭が絡んでいたからではないかという意見を持つ者もいた。


猫氏は日本国籍に戻るだろう、勝手な人間だと伝えていたマスコミ。


しかし、会見を開いた猫氏は
「カンボジア代表として次のオリンピックを目指す」
と明言し、今度も頑張ると意欲を示した。


また4年後、同様のことが起こらないか、見ものである。

写真は、台湾独特の珍しい木です。










コラムニスト●プロフィール
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岩城 えり(いわき えり)
1971年12月東京生
オーストラリアで学生時代を過ごし
アラブ首長国連邦・シンガポールで就職
結婚し帰国したものの夫の転勤のためすぐに渡米
2005年12月より台湾在住 from 台湾 from 台湾

2012年5月1日火曜日

連載コラム309 from 北海道●続・原発を考える


「世界から見た福島原発事故」というEテレを見た。
これは、NHKで放送された特番だが、福島第一原発の事故後の
世界の変化をさまざまなインタビューと映像を通して語っていた。
ここで取り上げていたのは、スイスとアメリカ。
スイスは小さな国だが、原発もそれなりにあって、福島で事故を起
こしたマーク1と同じ型の原発もある。
でも、日本とまるで違うのは、もしもの事態に備えようとする気構えだ。
100%の安全策などないけれど、スイスでは、原発を稼働させる
責任やリスクをきちんと認識している。
決しておろそかにはしていない。
国土が日本の九州ほどしかない小さな国である。
ひとたび、原発事故がおきれば、国なんて一溜まりもない。
そのことをじゅうぶんすぎるほど解っているのだ。
だから、原発の安全対策も、できるかぎり徹底している。
もちろん、独立した検証機関があるスイスでは、日本のような原子
力村の癒着はない。
スイスには、各家庭に、核シェルターまである。
もっぱら普段は、備蓄庫として使用されているようだが、スイスで
はこれが普通である。
そのスイスでも、将来的には、脱原発を目指すよう、国の姿勢を明
らかにした。

日本は、どうだろう。
震災から一年が経ったいま、福島の原発事故をじゅうぶんに検証し
ただろうか?
中身のない議論とつくろった検証で、何も変わっていないのではな
かろうか?
私たちには、知る権利がある。
あの事故が、どうして起こったのか、本当に防ぐことは出来なかっ
たのか、本当のことを知る権利があるはずだ。
番組の中で、スイスが日本の電力会社に安全対策の引き上げを訴え
ていた話が出ていた。
しかし、日本の電力会社は笑みを崩さず、私たちには不要だと、い
つも同じ答えだったという。
原発事故から一年が経ったいま、日本の原子力村も電力会社の体質
も何も変わっていないと感じているのは、私だけではないはずである。
私は、あの震災で、福島の原発が事故を起こした今でも、反原発派
ではないし、推進派でもない。
ただ、事故をうやむやにしたまま原発を稼働させることには絶対に
反対だ。
いつだったか、養老孟司さんがテレビインタビューで、「日本人
は、危機管理が不得意」と言っていたが、これまでの電力会社や原
子力村や経産省の体質を本気で改善できなければ、原発の稼働など
ありえない。
リスクに正面から向き合えなければ、原発を稼働させる資格などな
いのに、一番重要なそのことが、この国では欠落している。
東電は、電気料金の引き上げとあわせて、新潟の柏崎刈羽原発を稼
働をさせたいと言いだした。
唖然とする。
東電の不貞不貞しさに、開いた口がふさがらない。
本当なら、あの震災から、日本は変わらなければならないはずなの
に、この国のあり方に危機を覚え、必死に頑張ってるのは知事たち
ばかり。
もう、民主党なんていらない。
心からそう思います。



コラムニスト●プロフィール
……………………………………
赤松亜美(あかまつあみ)
北海道在住

連載コラム191


近年、日本で急増している孤独死。

メディアは連日のように日本各地で
一人きりで亡くなった人たちを報道。

核家族化が進み、子供が親を助けなくなったこと、
ご近所とのつながりが薄くなったこと、
社会全体が冷たくなったことを嘆く。
そんな風潮になってきた。

孤独死とは、そんなに悪いことなのだろうか。
孤独死とは望まれていないものなのだろうか。

家族の言い分
老人が一人きりで亡くなると、
子供はどうしていたのか、兄弟はどうしていたのかと
メディアは騒ぎ立てがちだ。

しかし、その老人は若いころ、とんでもない人で
周囲の人は苦労させられ、疎遠になっていったのかも
しれない。

夫として妻として、母として父として、酷い人間であり、
周りの人たちは、連絡してきてほしくないという気持ちを
持っていたのかもしれない。

私の周りにも、成人してから親と絶縁し、
病気になっても、年をとっても、絶対に面倒をみないと
宣言している友人がいる。

彼女は自分の親は毒のような親であったと言っており
人生をめちゃくちゃにされたと恨んでいるのだ。

親を嫌うあまり日本を離れ海外に住んでいる彼女は、
もう二度と親に会うことはないと断言している。

このように、孤独死を招くような生き方をしている
人間もいるのである。

個人の言い分
自ら孤独死を選ぶ生き方をしている人もいる。
誰にも縛られず、結婚もせず、一人気ままに生きる。

元気なときに、やりたいことをたくさんやるため
得に貯金もせず、年金も払わず。

老人ホームにも入らず、その日、何とか暮らせればよい。
そんな老後を望んでいる人もいるのだ。

それでも老いたり、病気で体が思うように動かなくなると
死に恐怖感を抱くようになるかもしれない。
一人で死ぬということを後悔するかもしれない。

しかし、それも仕方のないこと。

40歳を過ぎても結婚願望がわかず、
ずっと一人暮らしをしている友人は、
「孤独死という言葉に違和感を感じる」と言っている。

彼女は猫を飼っているのだが、決して孤独でないというのだ。

色々な生き方があるのに、孤独死はかわいそうと
ひとくくりにされるのは嫌だと彼女は言う。

彼女のような人たちは、今の日本の得に若い世代には
多いように思えてならない。

孤独死は本当にかわいそうなのか
外国人の友人に、日本で孤独死という言葉が
まるで流行のように使われていること、
そして、この上ないマイナス・イメージとして使われていることを
話してみた。

欧州出身の友人は、この事について
「尊厳死に近いものなのでは」とコメント。

「家族がいると、自分の意識がもうろうとしていると
延命治療をされてしまいがち。

でも、孤独死なら、自分の死と向き合う時間も多いだろうし
自分の選んだ死を迎えることができるのでは」

というのである。

家族というしがらみがない人たちは
死に対しても、自然に受け入れることができ、
安らかにあの世に逝くことができるというのだ。

確かに、一理あり、である。

当然のように延命治療が行われ、管まみれになり
痛みと戦いながら病院のベッドで息絶えるより、
自然に死を迎える孤独死の方が、
本当は、幸せなのかもしれない。













写真は、台湾市の山でよく見かける台湾の野鳥です。


コラムニスト●プロフィール
…………………………………
岩城 えり(いわき えり)
1971年12月東京生
オーストラリアで学生時代を過ごし
アラブ首長国連邦・シンガポールで就職
結婚し帰国したものの夫の転勤のためすぐに渡米
2005年12月より台湾在住 from 台湾 from 台湾