2011年9月23日金曜日

連載コラム176 from 台湾

2001年9月11日、
世界中を震撼させたアメリカ同時多発テロが発生した。

あの日、アメリカを飛ぶ4機の旅客機がハイジャックされ、
うち3機は、ニューヨークの世界貿易センタービルの
タワー1とタワー2、
バージニア州にある国防総省本庁舎(ペンタゴン)
に追突し爆破炎上。

残りの1機はワシントン州のホワイトハウスを標的にしていた
とされるが、乗客が必死に反逆。
テロリストは、飛行機を途中のペンシルベニア州に墜落させた。

この衝撃的なテロ事件で、
3000人近くが命を落とし、6000人を超える人が負傷。

その後、アメリカはテロとの戦争に突入し、
さらに大勢の犠牲者を出している。

辛い辛い10年
今年の9月11日で、アメリカ同時多発テロから
ちょうど10年が経った。

10年という区切りの良い数字であることから、
節目の年などと言われ、日本の放送局でも特番が放送された。

しかし遺族にとっては、何年経っても受け入れられぬ
苦しい日となっている。

生存者の中にも、「生かされている辛さ」を感じている人は多く、
あの日から生活が一転し、人生が大きく狂った人もいる。

彼らにとっては辛い、辛い10年なのだ。

報道の惨さ
911特番では、繰り返し飛行機が世界貿易センタービルに
追突、爆破、炎上する様子を流していた。

これが、遺族にとってどんなに惨いことなのか
番組制作会社や放送局は考えないのだろうか。

遺族にとって、あの映像とは、
自分の夫、妻、父、母、子供が絶望と恐怖の中、
亡くなる瞬間なのである。

人間は危険な目に遭うと、全てがスローモーションで
見えると言われている。

交通事故にあった人は、ぶつかる瞬間、時間がゆったりと
流れたとよく言う。

あの日、飛行機がビルに突っ込んだ瞬間も
被害者はそう感じたのかもしれない。
死の瞬間はこの上なく苦しかっただろう。

自分の愛する人がそんな風に殺される瞬間を、繰り返し、繰り返し
見せられることで、遺族が胸を引き裂かれるような思いになると
少しでも想像できないのだろうか。

911に限ったことではなく、311と呼ばれる東日本大震災でも
車が津波に流される映像などを流している。
遺族にしてみれば、気が狂いそうな映像なのに。

卑怯なメディア
大きな事件が起こるとメディアの卑怯さが見えてくる。

911後のアメリカでは、イスラム教徒に対する報道が
グジャグジャになっていた。
そして、イスラム教徒をかばうものは、激しいバッシングを受けた。

311では、福島第一原発の放射能に関する報道が
グジャグジャだった。

純粋に読者にありのままを報じるメディアなど
ないということなのだろう。

どこの国のメディアも、利権の元動いているのである。

そんなメディアが作る特番は、視聴率を稼げるよう
よりショッキングに作られる。

筆者は911の後、事実に基づいた記事などないと知った。

「貿易センタービルを駆け下りた!」という見出しの記事が
あったが、駆け下りた人など一人もいなかったからである。

本当に呆れてものも言えない。

どんどん悪くなる世界
あのテロの後、世界はどんどん悪くなった。
戦争はもちろんのこと、経済も悪くなり、治安も悪くなった。

アメリカでは愛国法などというものが出来、
誰もが政府に見られている状態が続いている。

大事件とは、政府が力をつける機会でもあるのだろう。

日本も311後、どんどんと悪い方向を行っているように感じる。

10年後の世界はどんな風になっているのか。
想像しただけで背筋が寒くなる。


▼写真は、花蓮県にある太魯閣渓谷です。
















コラムニスト●プロフィール
…………………………………
岩城 えり(いわき えり)
1971年12月東京生
オーストラリアで学生時代を過ごし
アラブ首長国連邦・シンガポールで就職
結婚し帰国したものの夫の転勤のためすぐに渡米
2005年12月より台湾在住 from 台湾

連載コラム294 from北海道●野田政権のゆくえ

9月2日に野田内閣が発足してから、わずか9日目にして鉢呂吉雄
経産大臣が早くも辞任した。
みずからを「どじょう」に例え、挙党一致を掲げた野田政権は、内
閣発足後、つぎつぎと伝わる話は、大臣達の突飛な発言ばかりで、
まったく苦笑いしか出てこない。
鉢呂大臣の辞任劇も、そうした騒動の一端にすぎないようにも捉え
られるが、どうにも釈然としない感があった。
東京電力福島第一原発の視察後の会見で飛び出した「死の町」発言
も、この会見で大臣が発した言葉を一通り聞いてみると、それほど
問題があったようには思えない。
むしろ、福島の現状はそれほどまでに深刻と言いたかったのではな
かろうか。
東電の原発事故で、警戒区域や避難指定をうけた福島は、場所に
よってはゴーストタウンと言ってもいい過ぎではない。
鉢呂さんも、そのことを率直に述べただけなのだろうが、実際は
「死の町」という言葉だけが切り取られ問題視されている。
その後、夜になってから、大臣が議員宿舎へ帰宅した際に、囲み取
材の記者のひとりに近寄って、着ていた防災服をすりつける仕草を
し、「放射能をつけたぞ」という趣旨の発言をしたとのことだが、
二度の失言というレッテルを張られ、今回の辞任に繋がっている。

もともと鉢呂さんは、旧社会党グループの人。
農協職員だった1990年に無所属で衆議院選に出馬し、初当選後
に社会党入りし、その後、民主党に移っている。
政治姿勢は、左翼的な部分もあるが、人柄はマジメだ。
興味深いのは、この鉢呂さんが、震災後になんども積極的に福島を
訪れていることである。
各学校を視察し、クーラーの必要性や、学校もしくは周辺の放射線
規定量を下げるように、国会で熱心に訴えてきたのが、鉢呂さんだった。
それだけに、福島再生への思い入れは深かったはずである。
そのような人が、経産大臣に抜擢され、将来的には原発ゼロの社会
を目指すと発言し、急がれているTPPについても、元農協職員
の経験から慎重な姿勢だった。
新しい原発はつくらず、いま現在、建設を凍結している原発につい
ても、十分に検討していくと鉢呂さんは対応を示したが、たとえば
建設が着工済みの青森の大間原発では、工事の4割が進んでいる状
態で、将来稼働を前提にしたストレステストの対象にも大間原発は
含まれ、岡田前幹事長も、5月の視察の際に、すでに出来つつある
ものは、安全性を高めて、と擁護したことも、鉢呂さんは、慎重な
姿勢を崩さなかった。

3.11の震災、並びに福島の原発事故が、日本国内の原発を抱える自
治体にもそのまま影響をあたえ、踏みとどまり、考える方向に迎え
れば良いが、物事は、なかなかそうたやすくはない。
原発への依存度が高ければ高いほど、自分達の町は大丈夫と勝手な
思考停止におちいってしまう。
それだけ、国は原発を抱える自治体に金をばらまいてきた。
麻薬のように、次々と原発をつくらせ、原発で働かせ、離れられな
い仕組みをつくってきたのだ。
福島原発の被害の大きさが、復興の足かせになっていることは明確
なのに、原発を抱える自治体では、自分達の生活不安がまず先にくる。
原発で食べているということは、そういうことだ。

北海道も泊原発の再稼働を知事が容認したことや、北電のやらせ問
題が浮上している。
2008年の泊原発3号機のプルサーマル計画を巡る公開シンポジ
ウムで、北電が社員に計画推進の意見を出すようにメールを送って
いたが、このやらせ問題、すでに2000年の集会でも行われていた。
北電は、組合そのものが民主党である。
世論が脱原発に傾いても、北電の組合支持を票に取り込んできた民
主党には、頭の痛い問題である。
それほどまでに、日本の電力会社の力は大きい。
経産省との癒着もある。
国は、福島原発を抱える東電をはじめ、地域独占企業の電力会社と
手を握り合ってこれまでを歩んできたのだ。

私が解らないのは、なぜ野田さんが鉢呂さんを経産大臣に抜擢した
のかということだ。
挙党一致を掲げたのだがら、この選択も当然と言えばそれまでだ
が、どうにも腑に落ちない。
極めつきに、鉢呂さんの後任には枝野さんを任命している。
枝野さんについては、やはり即戦力と判断したからとのことだが、
鉢呂さんと枝野さんでは、あまりにも方向性に違いがありすぎて、
本命は枝野さんだったのかと疑いたくなった。
原発の早期稼働やTPPの推進、そして復興を理由にした増税路
線を掲げる野田さんと枝野さんに大きな違いはない。
やはり、こうした一連の動きをつなぎ合わせてみると、鉢呂さんに
は、適当なところでポストを降りてもらうことも考慮していた、な
んて怖い想像に行きついてしまうのだが・・。

鉢呂さんの「死の町」発言はともかく、囲み取材での言動につい
て、本人はその後の辞任会見で言葉をにごしている。
そもそも、帰宅する議員を待ち受けて、番記者たちが囲んであれこ
れオフレコで話しを聞くなど必要だろうか?
この取材には、写真を撮らない、メモをとらない、名前を出さない
という決まりがあるらしいが、この決まりをやぶってまでも、記者
達が公表する必要性があると感じた今回の騒動も、オフの場での言
動なら、鉢呂さんがどういう状況で帰宅したのかもどこかすっきり
としない。
とつぜん、集まっていた記者達に自分から近づき、着ていた防災服
をなすりつけたというが、普通に考えても不自然である。
思うに、きっとその前になにかしらあったのだろう。
もしかすると、鉢呂さんはお酒を飲んで帰宅したのかもしれない
し、その鉢呂さんに、待ち受けていた記者達が何かを言い、やりと
りした末の行動だったとしたら、納得がいくからだ。
福島の除染をしっかりとやっていくと打ち出していた鉢呂さんなだ
けに、残念な気持ちである。
本人は、もっと傷心し、悔やんでいることだろう。
私は、鉢呂さんに大臣の資質がなかったとは思わない。
きっと、鉢呂さんなりに、心を尽くして頑張っただろうと思うからだ。
だが、脇が甘かった。
マジメで一本気な性格が仇になってしまったのかもしれない。

囲み取材をするなら、記者達は決まり守るべきだ。
これからという大臣を辞任に追いやり、陰でほくそ笑んでいる記者
がいるとしたら、そのことに私はゾッとする。

そして、こんな時期に、東電が被災者に記入を義務づけた保証金請
求書類の内容が公になったが、これが60ページもある書類だ。
テレビを通じて見た限りでも、非情に記載事項が細かく、こんなも
のを被災者一人ひとりに書かせる東電に腹立たしくなった。
しかも、この請求書類、3ヶ月ごとに記載が必要というから、まっ
たくもって話にならない。
政府は、税金を注ぎ込んでも東電を救済するつもりだろうが、膨大
な賠償金を払えない東電の資産は、すぐさま凍結すべきである。
凍結した資産を売却し、社員のリストラや解体をし、発送電の分離
や電力の自由化をさせて、これまでの地域独占体質にメスを入れれ
ば、もっと価格は下がるし、電力料金の引き上げも簡単には持ち上
がらない。
一社独占を野放しにしているから、原発事故のしわ寄せも電気料金
の値上げで国民がしいられる。
どの道、賠償金は国が肩代わりして払うのだ。
なのに、東電の資産凍結も、売却の話もまるで出てこない。
経産省のお役人も、自分達の身を切ってまで、何かをするつもりは
ないだろう。
財務省は、どうあっても、復興を盾に増税しか頭にない。
野田政権に、いったい何を期待しろというのか。
それでも、被災地では、もう待ったナシなのだ。
震災から、もう半年も経ってしまったのだから。
せめて、被災した人々にはなんらかの希望をあたえてほしい。
ささやかな願いである。


コラムニスト●プロフィール
……………………………………
赤松亜美(あかまつあみ)
北海道在住

2011年9月2日金曜日

連載コラム293 from北海道●さようなら、ボーちゃん


先日、実家で暮らしていた愛猫のボーが亡くなった。
享年21。
本当に、よく頑張って長生きしてくれた猫だったと思う。
ここ2年ほど、ときどき会いに行っても、すこぶる老いを感じるよ
うになっていたので、心配だったのだが、ボーは、人間の年齢に換
算すれば、とうに100歳は越えるほどの老齢である。
それでも、あまり走り回らなくなったぐらいで、彼女の暮らし向き
は、よく眠り、ゆったりとスローペースになったぐらいのものだった。

今から1年と半年前に、私の両親と同居していた祖母が他界し、他
界する少し前あたりから、ボーは、祖母の側へは、いっさい近寄ら
なくなっていた。
祖母は、一階のリビングに隣接している和室に寝ていたが、体を起
こすこともままならなくなってからは、和室に設置した介護用の
ベッドで横になっていることがほとんどで、祖母の臨終の時など
は、ボーは二階にこもりっきりになり、下の階にはまったくおりて
はこなかった。
想像できることは、たぶん本能的に、祖母に死臭を感じたのだろう。
人間にはもちえないセンサーが、猫にはあるのだ。
それは、猫だけに限らず、きっと動物ならみんなに備わっているの
かもしれない。

ボーは、雑種のメス猫だった。
生まれてそれほど経たない時に、ダンボールに入れられ捨てられて
いた猫だった。
それを小学生たちが、見つけ拾った。
最初は、自分たちの中の誰かが飼おうと、小学生たちは考えたのだ
と思う。
しかし、物事はそうたやすく運ばず、けっきょく誰の家でも猫を引
き取れなくなった小学生たちは、毎日まいにち帰宅してから、みん
なで手分けして家を一軒いっけんまわり、この猫を飼ってはくれな
いだろうかと交渉をした。
私は、ぐうぜんその話を、当時働いていた職場で聞いた。
看護助手をしていた吉川さんという知人が、小学校に通う自分の娘
が、クラスメートと一緒に、毎日、猫の飼い主を捜し回っているの
だと私に打ちあけたのだ。
吉川さんは、取りあえず今は、自分の家で猫の世話をしているけれ
ど、できることなら、飼い主を見つけて、ゆだねたいとのことで、
私もその当時はペットが禁止のアパート暮らしだったので、迷いに
迷ったが、まずはその猫をみせてもらうことにした。
考えるまでもないが、とうぜん、対面してしまえば、情がわく。
私は、どうしても、猫を見捨てられなくなっていた。
猫は、まだてのひらより、ずっと小さく、耳と目が顔にアンバラン
スなくらい大きくて、か細い声でしきりとミィミィ鳴く姿が幼気だった。

その日から、猫との暮らしが始まった。
名前は、ボーと名付けた。
正式な名付け親は私ではない。
その当時、私の家によく出入りしていた友人がつけた名である。
メス猫なのに、ボーなんて名前は、ちょっと可哀想に思えた。
それでも、猫自身は、自分の名に不満らしい仕草もみせず、愛くる
しいままに、すくすくと成長していった。

私は、ボー相手に、よく会話をしたものだ。
もっぱら、彼女を抱き上げて、話を聞かせるのは私のほうだけど、
ボーは私の話を聞きながら、よく喉をならしていた。
抱かれるのが、なにより好きな猫で、一緒にいることをすこぶる好んだ。
台所に立つ時は、胸からさげたエプロンで袋をつくり、その中に
ボーを押し込んで食事の支度をしたし、彼女の食事は私が自分の指
から直に食べさせた。
猫缶を食べられるようになってからは、マグロの缶詰を嫌って、カ
ツオの猫缶ばかりを好み、それ以外に好きなものといえば、笹かま
ぼこやカツオ節で、たまに良質な鮭の切り身を焼いた時だけ、彼女
は美味しそうにほうばるが、生魚はいっさい口にしない。
刺身をどんなに食べさせようとしても、ガンとして受けつけないのだ。
それでも、新鮮な刺身が手に入った時など、私なんぞは飼い主のエ
ゴで、彼女に無理に食べさせようとした。
手にのせて、ボーの注意をひき、匂いを嗅ぎにきた彼女が、案の定
そっぽを向いてしまうと、そんなこと言わないで、いいから食べて
ごらんとばかりに、こちらが猫なで声をだして、ボーの口に、刺身
を無理矢理もっていく。
だが、嫌がるボーは、歯をイーにして、ぜったいに拒否した。
それなので、こういう時の結末は、ボーの口の周りで、刺身が無残
にぐっちゃりとつぶれて張りつくだけだった。

ある朝、棚の上で寝ていたボーが足を滑らせて、落ちた。
ボーは、滑り落ちたことで、瞬時に慌てたらしい。
小さな体で、せいいっぱい着地をしようと、爪を立てた。
それが、棚の真下で寝ていた私の顔の上だったものだから、私の顔
はボーの爪で傷をつくり、血がふきだし、みるみる腫れ上がってし
まった。
その時のボーのことは、今でも忘れられない。
もう、これ以上ないほどに、彼女は気が動転していたからだ。
それでも、幸運なことに、職場が病院だった私は、出勤そうそう形
成外科に掛かり、予防接種の注射を受けて、傷を治すテープを半年
間張っただけで、まったく痕は残らず、完璧に治ったのだが、その
半年の間、困ったことはと言えば、ボーのことである。
彼女は、私の顔元にのぼってきては、目を細めて、傷を舐めたがった。
その行為が、あまりにもしつこいので、きっと彼女なりに私を心配
したのだろう。
動物は、自分で舐めて傷を癒す習性があるから、ボーの気持ちは有
り難いが、そのまま放っておくと、治療テープだってあやうくなる。
この時の半年間は、ボーの愛情に喜びながら、ボーから逃げ回るこ
とが多かった。

その後、ボーが私の実家で暮らし始めた経緯は、私の離婚が理由だ。
猫が家につく習性を知っていた私は、最初、ボーを前の夫にゆだね
ることにしたのだが、私が家を出てから、ボーはいっさいご飯を食
べなくなり、ソファの下にこもって夫を拒絶したらしい。
それが、幾日もつづき、おびえて全く懐かなくなったボーに困り果
てた夫が、ボーを引き取ってくれと私に言ってきた。
私が、前の家に顔を出しても、すぐさまボーは寄ってはこなかった。
名前をよんで、声を掛けても、ボーはソファの下で、ただじっとこ
ちらの様子をうかがっているだけだ。
それで、とにかく何か食べさそうと、私が冷蔵庫を開けてゴゾゴゾ
やりだしたとたん、ボーがソファの下からすっ飛んできて、すごい
剣幕で鳴きだした。
ボーは、私に抗議していた。
彼女は、きっと私に腹を立てていたのだろう。
どうして、勝手に家を出ていったのかと。
私に捨てられたと感じたボーは、とにかく私に捲し立てた。

実家で、私がボーと暮らした時間は、たったの2年ばかりである
が、ボーは、実家での生活を謳歌していたようだ。
最初は、住む家が変わったことで、彼女なりに戸惑いはあったもの
の、次第に家の中を少しずつ探索するようにもなり、家にも私の両
親にも慣れていった。
母は、ボーを家に連れ帰った当初から歓迎していたが、父は毛嫌い
していた。
父は、その前に飼っていた猫が家出をしてしまったことが、なかな
か忘れられず、前の猫が去った哀しみがまだ癒えずにいたから、も
う、二度と猫は飼わないと宣言をしていたのに、出戻りの私が猫を
連れてきたので、嫌悪していた。
「二階から猫をおろすな」と私に腹を立て、父は猫にいっさい触れ
ようとしない。
それでも、ボーは、階段を一段ずつおりるように、家の中で自分の
テリトリーを少しずつ広げていった。
そして、なにくわぬ顔で、父との距離も縮めていった。
気がつくと、家の中で、誰よりもボーに関心をしめしているのは父
だったし、私が次の結婚を決めて、実家を離れる前から、父はボー
の世話にあきれるほど積極的だった。
ボーのご飯係は、父の役目である。
トイレ掃除も、もちろん父だ。
ボーは、そのことがどこか当たり前のような仕草だ。
ボーは、甘える時は母に甘え、世話係は父と決めているらしく、こ
ちらが見ている限りでも、ボーのほうが父よりどこか偉そうだ。
顎で使うかのごとく、ボーが威張って父に「はやくしろ」と鳴いて
いる姿にこちらは失笑してしまうが、そんな時の父はボーにねだら
れて、いっそう目尻をさげていた。
父は、ボーに甘えられるのが、嬉しかったに違いない。
庭を歩き、他の猫とはいっさいつき合おうとはせず、興味があるの
は、大人の人間と鳥や虫ばかり。
冬の季節に、雪がチラチラ降り始めると、鳥や虫に話し掛けるのと
同じく、ボーは、ちっちゃい声で「エエエエエエ・・」と鳴いていた。
そんな時のボーは、可愛さに輪を掛けて、いっそう愛くるしい。

ちょうど一年前だ。
他界した祖母の初盆を迎えた頃、ボーはこれまでになく体調を崩した。
弱って、クローゼットの中にこもりっぱなしになったままで出てこ
なくなった。
猛暑で、その夏も連日暑い日が続いていたから、熱中症になったの
かもしれないと私は思ったが、母は他界した祖母がボーを連れて行
こうとしていると思い込んでいた。
「初盆だからね、きっと迎えに来たんだ」と母は私になんども言っ
たからだ。

ボーが亡くなる前の数ヶ月は、本当に体調にも波があって、今まで
無縁だった病院にもよく掛かるようになっていた。
老齢のため、歯槽膿漏で奥歯が抜け落ち、それからは口臭がひどく
なって、なんとも可哀想だった。
病院で検査を受けると、もう臓器もあちこちとかなり弱っていて、
手のほどこしようがないと言う。
当然、手術など絶えられるはずもない。
それで、とりあえずは栄養の点滴しか治療手段がないわけだが、こ
れを何日か続けていると、彼女はまた体力を回復し、元気に食事も
取れるようになって、家も庭も、普段通りに歩き回った。
しかし、やはり波があった。
一時的に元気を取り戻しても、また何かの拍子に弱ってくる。
そんな状態を繰り返した。
父は、必死だった。
ボーをなんとか助けようと、病院に連れて行き、ボーのために濃厚
な牛乳を買い求め、ボー専用の高級ハムを買ってきたり、とにかく
父なりに一生懸命だったから、父の思いは、きっとボーにも届いた
ことだろう。
ボーは、父が用意してくれる食事を嬉しそうに食べていた。

それでも、雨の日に、ボーはそっと家から抜け出したらしい。
どしゃぶりの中を、いつもの散歩道とは違う方角へ、まっすぐに歩
いていくボーの姿を見つけた母は、大声をあげて父を呼んでいた。
その間、母はボーの名前をなんども呼び叫んだが、ボーは振りかえ
る気配すらなく、わが家からどんどん遠ざかっていく。
雨の中を飛び出していった父が、慌てて後を追い、無理矢理ボーを
つかまえて、家に連れ帰ったというのだが、私は、この話しを母か
ら後で聞かさせた時、ボーの覚悟のようなものを感じてしまった。
たぶん、その時のボーは、自分の死を悟り、覚悟をきめて家を出て
いったのだろう。
猫は、猫に限ったことではないが、動物は自分の死を悟ると、そっ
と行方をくらましてしまう。
ひとりっきりで死ぬことが、何か当たり前のように、覚悟をきめて
しまう。
人間と暮らし慣れている猫でも、そんな習性は、さけられないのか
もしれないが、もし違うというならば、誰かがボーを迎えにきたの
だろうか?
あの世からボーを迎えに来たのかもしれない。

そして、雨の日から3日目に、ボーは静かに息を引き取った。
私は両親と共に、ボーの遺体を抱いて、火葬場を訪れ、動物霊園の
共同墓地におさめにいった。
21年も長生きしてくれたのだから、本当によく頑張ってものだ。
だから、それだけに思い出が深い。
今でも、ふと気を緩めると、ボーとの思い出がまざまざとよみがえ
り、涙があふれてしまう。
私ですらそうなのだから、長年ボーと暮らしてきた父や母は、どれ
ほ悲しいことだろうか。
きっと、両親は、今度こそ、もう二度と動物は飼わないだろう。
猫なんて、特にだ。
動物との別れを克服して、またペットと暮らせる人も世間にはいる
けれど、私の父も母も、それほど器用な人ではない。
だから、父と母にとってボーは、おそらく最後のペットになるだろ
うと感じた。

猫が自由気ままに外をかっぽし、猫たちのコミュニティがつくりあ
げられ、本来の猫らしい姿で生きられることは、やはり素晴らしい
に決まっているが、ボーのような猫を長年みていると、ああ、この
猫は、そういうこととはまた別な目的があって生まれてきたのだろ
う、なんて私は思ってしまう。
いつだったか、江原啓之さんが、動物の魂の最終的な目標は、人間
に生まれてくることと言っていたが、それならば、野生で生きる動
物より、人間と関わり、人間と近い距離で暮らす動物などは、もっ
ともその目的に近い存在といえるわけで、そのための訓練や修行の
場が、現世であるならば、きっといつかは、私たちのボーも、人間
になって生まれ変われることもあるのだろうか・・・・。
そんなふうに想像すると、私もまた、いつかの人生で、ボーの魂と
ひょんなことで巡り会えるかもしれないなんて、優しい気持ちになった。

ボーと過ごした時間の全てが、楽しく幸せだった。
どれほど、あの猫に癒され、与えられたことだろう。
猫との思い出の全てが、私にとっては宝物である。
愛しい時間なのです。


コラムニスト●プロフィール
……………………………………
赤松亜美(あかまつあみ)
北海道在住

連載コラム175 from 台湾

8月29日、民主党は菅総理大臣の後釜を決める
代表選挙を行った。

候補者は5人。前原前外相が有力だとされており
小沢氏と鳩山氏の支持を受けた海江田経済産業相との
一騎打ちになると、各メディアは報道。

ところが、蓋を開けてみると前原前外相は74票と低迷し
海江田経済産業相も143票。
半数の200票には届かなかった。

地味なイメージの野田財務省が102票獲得し、
海江田経済産業相との決選投票へ駒と進め、
215票を集め、新代表に選ばれた。

国民としては増税を明言しているのが気になるところだが
特定国に媚びることはないだろういう点では
よかったのかもしれない。

しかし媚びることがないため、民主党内を分裂させる
そんな存在になるかもしれない。

菅総理、まさかの爆弾
退任を発表した菅総理は、存在感がますます薄くなり
身内や近い人たちとだけ食事をする日々が続いた。

311からの復興を手がけるのは容易ではないと分かるが、
福島第一原発事故といい、あまりにもおそまつな仕事ぶりが
目立った人物であった。

そんな菅総理は、国民やメディアの注目が民主党代表戦に
向いている29日、
審査手続きが停止状態にある朝鮮学校への高校授業料の
無償化適応について審査を再開させたのである。

この審査は昨年11月に北朝鮮が韓国に砲弾攻撃したため
停止に追い込まれていたもの。

菅総理は「砲撃前の状況に戻った」と再開されたのだが、
果たしてそうだろうか。

どさくさにまぎれてこのようなことをする菅総理には
ますます不信感が募る。

海外メディアのリアクション
野田財務省が民主党代表に選ばれ、
新しい総理大臣になるだろうというニュースは、
海外でも大きく報じられた。

どのメディアも菅総理が311以降辞任しろと
プレッシャーをかけられていたこと、
チェルノブイリ以来、最悪の原発事故を起こした日本を
うまくまとめられず、事故の対応もきちんと出来ていないことが
綴られていた。

また、新首相が原発事故をどう終息させていくのか、
そして円高にどう取り組んでいくのかを、
注目ポイントとしてあげていた。

続く円高
野田財務省が代表になり、瞬間的に円高が進んだ。

世界的に不景気で、日本では相変わらずデフレ状態だが
それでも嫌がらせのように円が買われ続けられている。

このままだと不況は一層深刻化し、
格差は一層ひらき、治安は悪くなってしまうだろう。

野田氏は時限的な税再措置をとらざるえないと明言したが
一度した増税を、下げるなんてことは絶対にないだろう。

朝鮮学校への高校授業料の無償化だの、
そんなところへ金を流しているのだから、
金はいくらあっても足りないのである。

海外の日本人学校は相変わらず何の恩恵も受けられず
バカバカしいにもほどがあると、みな憤りを感じている。

これからの日本
国民のためでない政治が行われ続けてきた日本。
国民のためにならない報道を行ってきたメディア。

今回メディアは、前原氏優勢と書きたててきたが、
それを願っていたからであり、事実は違ったのではと
勘ぐってしまうほどである。

新内閣は、どこまで日本のために尽くしてくれるのか。
本当に心配でならない。


▼写真は、台北市内中心から見える台北101です。
























コラムニスト●プロフィール
…………………………………
岩城 えり(いわき えり)
1971年12月東京生
オーストラリアで学生時代を過ごし
アラブ首長国連邦・シンガポールで就職
結婚し帰国したものの夫の転勤のためすぐに渡米
2005年12月より台湾在住 from 台湾