2010年9月1日水曜日

連載コラム269 from北海道●アウトレイジ

北野武監督15作目の『アウトレイジ』は、タイトルそのまんまの
通り、極悪非道なバイオレンス映画だ。
登場人物は、みんなヤクザ。
いや、ひとりだけ刑事がいるけれど、この人も極悪で非道な人間である。
ヤクザ社会の抗争劇『アウトレイジ』は、暴力のバリエーションを
追求した、痛さと笑いが同化した映画でもある。
目を覆いたくなるほど、むずがゆくなるほど、痛さが伝わってくる
かと思ったら、次のシーンで、お腹がよじれるほど笑いがとまらない。
これほど、痛快で、発散できてしまう映画に、見事としかいいよう
がない。
まったく、この監督の頭の中は、どうなっているのだろう。
ビートたけしと芸術家・北野武の間を自由自在に行き来し、彼が提
供してくれるあらゆる物は、面白くて、魅力的で、多様性に満ちて
いて、限りなくどこまでも可能性を感じてしまうし、たくさんを考
えさせられる。
それでいて、世の中をどこかシビアに、容赦なく冷淡に見つめてい
る、そんな目線をも感じる。
私は、巨匠・北野武さんのことを、愛敬をこめてタケちゃんと呼ん
でいる。
そして、タケちゃんが提供してくれる映画も、お笑いも、テレビ番
組も、エッセイや短編も、とにかく大ファンだ。
ビートたけしと北野武が混在する「たけし」という人は、その全て
が作品で、エンターテイメントなのだろう。

今年、5月17日に、『アウトレイジ』は、第63回カン
ヌ国際映画際コンペティション部門で上映された。
その評価は賛否両論とのことだが、反響は大きく、今年のカンヌの
一番の話題作だった。
北野作品のカンヌ国際映画祭は、『菊次郎の夏』以来。
11年ぶりである。
そして、1989年の初監督作品『その男、凶暴につき』や、
『BROTHER』『座頭市』から数えると、バイオレンス映画は、
まさに7年ぶりのこと。
今回も、さまざまな実験的な要素を含んだこれまでの北野作品か
ら、原点に立ち戻った暴力映画を想像していたが、過去の暴力映画
とはまったくの別ものである。
北野映画の進化を見せつけられた気がした。
映画『アウトレイジ』は、完全無欠の娯楽作である。
しかし、究極の暴力や残酷と背中合わせに、笑いが散りばめられてる。
この笑いは計算だろうか?
監督はインタビューで、こんなことを語っている。
『暴力とお笑いというのはかなり近いものがあって、立場の違いだ
けだから、フェイントを使ってどうするのかとか、それで笑うか笑
わないか。殺し方のシーンをうまく描けるかどうかは、うまく笑わ
せられるどうかに似ている』と。
この映画の登場人物は、みんな悪いやつらばかり。
身勝手で、自分の保身しか考えず、人の顔色をうかがい、その時々
で話をコロコロと変える姿に、思わず呆れてしまう。
しかし、こんな人達を、私たちは確かに何処かで目にしていないだ
ろうか?
手頃なところでは、近頃の政界。
互いに腹の探り合いをしながら、イス取りゲームさながらの争い
は、もうそっくり。
思わず、失笑したり、冷笑してしまう。
笑う自分をサディスティックに感じるのも、この作品の意とすると
ころなのかどうかは解らないが、非常に発散させられる。
政治に対する不満や不服、もやもやした気持ちを、この映画は、見
事に吹き飛ばしてくれるからだ。
『今回は、もう完全に男の、しかもバカな男たちの話で、「ヤクザ
は義理だ、人情だ」と建前を言っていたけど、結局、誰もそんなこ
とを思っていなかった、という男の世界の話』と、監督は言っている。
自分は、この中の誰に近い? なんて観点で見るのもいいし、北野
ファンに限らず、あらゆる人々、特に男性陣、特に政治家の方々に
は、この映画、観た方がいいなんて、お節介な気持ちにもなる。

人間の中に潜む暴力は、中途半端な形の提示より、徹底した物の方
こそ、恐さや痛さがリアルに伝わってくる。
ここまでやると、人は死んでしまうとか、その限度やこわさ、痛さ
をあらためて再確認し、知る意味でも、感情や想像力が欠乏気味の
今の時代には、『アウトレイジ』は、時代にあった映画ともいえよう。
サクッと殺すゲーム感覚の娯楽もいいけれど、今の日本人は、こん
なリアルな痛い映画をみんなが観たほういいと思う。


コラムニスト●プロフィール
……………………………………
赤松亜美(あかまつあみ)
北海道在住

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